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ZX-10R(16年) レーシングスライダー(フレーム左右/ジェネレーターC右/スターターC左)ロゴ無 ジュラコン/ホワイト AGRAS(アグラス)

慈雲尊者

小坂奇石記念館

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‡ 『阿留辺畿夜宇和』(3)

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波斯匿王1、仏に白して言く、我母既に逝去しぬ。若人あって 【送料無料】【DEGNER[デグナー]】 エンボス レザー ジャケット 15WJ-1 ブラック/Lサイズ、是を生けしむる者あらば、国城妻子をも捨て、我身命をも施して、報ずべし2と云々。今の世の人少しうれしかる事は有とも、是程の憂愁は、更に有べからず。上古末代3、大国辺夷4、懸に隔たる事は、皆心得られたり。悲しき哉やと云々。

パセーナディ王が、仏陀に語りかけて申し上げた。「私の母が逝去してしまいました。もし人で、母を生き返らせてくれる者があったならば、(私は)この国や妻子をも捨て、私の命をすらなげうち、(その恩に)報いるでしょう」と。今の世の人には少しばかり嬉しいと思える事があったとしても、これ程の憂愁(にかられる者)は、まったくありはしないだろう。(仏陀の御健在だった)遠い昔と(仏陀の教えが正しく行われず道義のすさんだ)今の世 カードでポイント最大34倍 3/21(木)20:00~3/26(火)1:59迄 ミシュラン PILOT SPORT4 MO サマータイヤ 225/45R18 MANARAY SCHNERDER StaG ホイールセット 4本 18インチ 18 X 7 +48 5穴 100、(インドという文化の中心となる)大国と(日本のような)辺境の異国、(それぞれが)はるかに隔絶したものであることは、すべてわかってはいることである。(しかし、それにしても、)悲しいことではないか。

  • 波斯匿王[はしのくおう]…釈尊在世当時、ガンジス川中流域でマガダ国と勢力を争っていた大国コーサラの王の名。波斯匿は、サンスクリット名Prasenajitあるいはパーリ語名Pasenadiの音写名。釈尊と同じ年に生まれている。出会ったときより釈尊に帰依し、様々な事柄について釈尊に相談していた。相当な大食漢にして、かなりの肥満体だったようであるが、釈尊から食べ過ぎを咎められ 【送料無料】 195/65R15 15インチ BRANDLE ブランドル M60B 6J 6.00-15 DUNLOP ダンロップ エナセーブ EC204 サマータイヤ ホイール4本セット【DUsum19】、ついに減量に成功したという。→本文に戻る
  • 我母既に逝去しぬ云々…明恵上人は母としているが、現存経典では祖母とある。【岩波】にて「『雑阿含経』(大正二・335中)」と指摘されているように、『雑阿含経』の「我亡祖母極所敬重。捨我命終。出於城外闍維供養畢。來詣世尊佛告大王。極愛重敬念祖親耶。波斯匿王白佛。世尊。極敬重愛戀。世尊。若國土所有象馬七寶。乃至國位悉持與人。能救祖母命者。悉當與之。既不能救生死長辭。悲戀憂苦不自堪勝」(T2. P335b)の一節を引いたもの。→本文に戻る
  • 末代[まつだい]…道義の衰えた世。明恵上人在世当時の「現在」。仏教が出世の為の一手段、あるいは生活の方法と堕し、浄土教など脱仏教の狂信者達がはびこった世。→本文に戻る
  • 辺夷[へんい]…辺境の夷国。ここではインドを中心と考え、さらにそこから遠く離れた支那文化圏の辺境国たる日本を指す。→本文に戻る
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    12.末代の習

    末代の習は、適学ぶ所の1を以ては、名利を荘て、法の本意を得ず。故に法印2たる二空3の道理をば捨て、目を見せず4若近代の学生の云ふ様なるが実の仏法ならば、諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん5。只思に心得ざる人を友としては、何の所詮6かあらん。愁歎するに堪たり。

    末代で当たり前のように行われているのは、たまたま学んだ仏の教えを(僧侶の出世の術としての学問として)使って、(自分の)名誉と利益を得ることはあるが、仏の教えの本意を得ることはない。だから仏の教えの旗印たる(人もモノも実体を欠いた空しいものであるとの)二空の道理を捨て 【メーカー在庫あり】 TCMT16T308KM サンドビック(株) サンドビック コロターン107 旋削用ポジ・チップ H13A 10個入り TCMT 16 T3 08-KM HD、内心を隠すのだ。もし近頃の学僧が説いているのが本当の仏教だとしたら、諸々の宗教の中で最も悪いのは、仏教以外にない。凡庸なる仏教の本意を心得ない人を友としても、何の甲斐があるだろうか。嘆き悲しむべきことである。

    • 法[ほう]…仏陀の教え、あるいは真理。法とは、サンスクリットdharma[ダルマ]またはパーリ語dhamma[ダンマ]の漢訳語。達磨はその音写語。「教え」・「宗教」・「真理」・「道徳」・「存在」・「慣習」・「もの」など、多くの意味を持つ言葉。→本文に戻る
    • 法印[ほういん]…仏教の根本教説。あるいは、仏教がその他の宗教と比較して独自の教説。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印、これに一切皆苦を加えた四法印などを指す。ここでは、「二空」をもって法印としている。→本文に戻る
    • 二空[にくう]…人法二空の略。人法二無我の別の言い。人には魂など不変の実体などないとする「人無我」と、人や物を構成する要素も実体はないとする「法無我」を同時に表した言葉。一般に、小乗は「人無我」のみを説き、大乗は「人法二無我」を説くと解釈されている。→本文に戻る
    • 目を見せず…【岩波】では「心情を目にあらわさない。内心をかくす。」とあるが、正確な意味をつかみえない。識者の教示をあおぐ。→本文に戻る
    • 諸道の中に云々…この一節は慈雲尊者も『十善法語』の中で引用している。鎌倉期そして江戸期と同じように、現在においてもこれとまったく同じ事が言い得る。日本の僧侶や仏教学者、あるいは新興宗教などが主張する仏教は、まさに「諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん」という言葉が見事なまでに合致するのである。→本文に戻る
    • 所詮[しょせん]…つまるところ何も無い CR50 エスティマ フロアマット【スーペリアオートクリエイティブ】CX SUPERIOR クルージングフロアマット エスティマ 50系 中期 CXT-113、という否定的言葉。【岩波】では「能詮の対」とも注しているが、ここではそのような意味はまったくない。→本文に戻る
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      13.我学道する様

      学道1する様は、諸仏菩薩は、如何仏道をば修行し給ひけんとのみ、守り居たれば、近代の学生の為には、其益もなし。されども、仏の糸惜く、思食けるやらん。形の如く仏道修行の用になる程は、心中許りは明かにして、滞りなしと云々。

      私が仏の道を学び修めるあり様は、諸仏諸菩薩は、一体どのように仏道を修行されたのであろうかと、(それに倣おうとすることを)信条としていたのであるから、(私の学道の成果は)近頃の学僧の為に、役に立つものではない。しかしながら、仏は(どのような者であっても)いとおしく、思われていたということだ。仏が説かれたとおりの仏道修行の役に立つならば、(学僧たちに私の)心の中くらいは明らかにしても 、差し障りは無い。

      • 学道[がくどう]…仏教を学び修行すること。もっとも、ここでの学道とは、難解な経典・論書を暗誦・研究して自身の見解をたて、数々の難解な試験を突破していくことを意味しているであろう。例えば南都興福寺の維摩会[ゆいまえ]や薬師寺の最勝会[さいしょうえ]、宮中の御斎会[ごさいえ]などの大法会は、そのような学問を修め、試験を突破して初めて出席できるハレの法会である。これを終えた僧侶はエリート中のエリートであった。恐ろしく難解な試験ではあったが、それは財や地位を得ることが出来る出世の手段でもあり、あくまで学問として仏教を学び納めるだけに留まる場合がほとんどであった。→本文に戻る

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      14.我は幼稚

      我は幼稚の昔より聖教1を見るも、仏の思食し企てたる法の趣を、知んと思ふ計にて、別に学生に成んとも人に誉られん共思し事は、無[なか]りしなり。

      私は幼かった昔から仏典を読んでいるが、それは仏陀が(人を悟りへといざなおうと)思し召し計画された教えの趣旨を、知ろうと思ってのことだけで、別に学僧になろうとも他人に賞賛され(出世し)ようとも思ったことは、一度として無いのだ。

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      15.我は師を

      我は1をば儲たし。弟子はほしからず。尋常は聊の事あれば師には成たがれ共、人に随て一生弟子とは成たがらぬにや。弟子持て仕立たがらんよりは、仏果に至るまでは我心をぞ仕立つべき。又仏は一切有徳の人を崇重し給ふが故に、一切衆生の上に居して、天人の師2たりと云々。

      私は(私を教え導いてくれる)師匠にこそ巡り会ってその膝下に入りたい。(私を師と仰ぐ)弟子など欲しくはない。世間一般では多少人より秀でたことがあれば(たちまち弟子をとって)師匠となりたがるが、師の膝下にて一生弟子のままでいたがりはしない。弟子をもって(師匠面して)教えを垂れようなどとするより、最高の悟りに達するまで自分の心をこそ仕立てるべきである。仏陀はすべての徳ある人を尊び重んじられたからこそ、すべての生きとし生けるものの上に立つ、神々や人々の師となったのである。

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